「一期一絵」をあなたに届けたい

僕の起源

ちょっと変わってる?

大人になって人から
「ちょっと変わってる」
と、言われることがよくある。

最初の内は「あー、そうなん」と
軽く受け流していた。

そんなこと言われてもねー
自分ではよくわかりません。

ただ今にして思えば、
自分の手で何かを作り出そうとする人は、
多少なりとも変わったところがあって
「丁度良いん」だろーと思う。

どうせならもっと変わっていたかったくらいだ。

どうも僕は、人の目を気にし過ぎる所があって
アカンなーといつも自分のことを残念に思う。

人を傷つける訳で無かったら
他人の事なんて別にいいやん
どうでもいいやんぐらいに思いたい。

でもそんな風に人から「変わってる」
と言われる人格を作ってくれたのは
多分幼少期が大きく起因しているんちゃうんかな?と思う。

GOCHA
へー、どんな幼少期やったん?
まぁ~、さほど興味ないけど!

変わり者の起源?

僕の幼少期の一番古い記憶は
不思議とある家の裏の玄関先から始まっている。

そのある家とは、
自分達家族が居候をさせて貰っていた家の事。

自分たちの家族は5人兄弟と言う事もあり
小さい頃から家はすごく貧乏だった。

GOCHA
 和人んち5人兄弟なん!?

なんで引っ越すことになったのかは分からないけど

GOCHA
 夜逃げやろ!なー

和人
 ちゃうわいっ!

兵庫県の西宮から京都の太秦に
4歳位に引っ越してきた。

その居候先は教会で、
多くの人が出入りする正門と、
家の人間だけが出入りする裏戸が有り、
まだ幼い自分はなかなか家の中に踏み入ることが出来ずに
裏戸の前でモジモジしていたのを今でも覚えている。

GOCHA
居候先の家族構成は? 

それが向こうの家族にも偶然子供が5人いて、
そしてお婆さんもいた。
そこへ俺たちが加わったので一気に大家族に。

GOCHA
 凄いな。
和人の7人家族を受け入れてくれた
向こうの家族の人達が凄い。

そうやな!でも子供の俺は
そんな事ひとかけらも思わずに過ごしていた。

そう、いつも「なんでなん?なんでなん?」と
「なんでウチだけなん?」とかって
母親を困らせていたように思う。

例えば教会で、朝は何時に起きて
神様に挨拶をする決まりがあっても
「宗教の自由なんやからほっといて」
みたいなことを言って困らせていた記憶がある。

GOCHA
 ガキのくせに! 

居候というのは、
子供にとっても、とても肩身の狭い思いだった。
甘えやわがままはもちろん言えない。
我慢する事がとても多い生活だった。

そういう背景があったからなのか?
「何か特別な力が欲しい!」
「自分の手を使い何か特別なことがしたい!」
と心の奥底でいつもに思っていた。

それが後の、
画家を目指す事になる根っこの
部分だったのかもしれない。

そういつもストレスを抱えていたんだろーな。

そして10円玉大の禿が出来ていた。(笑)

いつも髪の毛を指に絡ませて、
くるくると回して指に絡まった髪の毛を
引っ張っては抜いていた。

GOCHA
 そら禿るわ。 

どんなストレスがあったかって?

スニーカーが欲しかった

幼少期はとにかく貧乏で本当に嫌だった。

服はもちろんいつもお下がり。

そして、靴はずっと『上靴』を履いていた。

GOCHA
 外で上靴?

和人
校内には外靴で入る学校やったから、
外でも上靴。中でも上靴。

履いていた上靴を履き潰してボロボロになって、
「やった~!これで新しいかっこいい靴が買ってもらえる!」
と思ってウキウキしていると・・・

 

はい、新品の上靴。

ガックリ・・・

その繰り返し。

GOCHA
 ガーーン・・

周りの友達は、みんな格好いいスニーカーを履いていて、
すっごく羨ましかった。

その他、シールが貼られ過ぎて本体の鉄の部分が全く見えない自転車。
一体何人の人がこの自転車を乗り継いできたんやって言うくらい。

電話を取るときは同居先の苗字を名乗らないといけなかった事。

例えば電話がかかってきて自分が取り、
居候先の名前で名乗ってから、
相手が自分の友達だったりすると、
次の日に「昨日なんで違う名前で名乗ってたん?」
と聞かれ、ごまかすのが嫌だったこと。

居候先の子と喧嘩をした時でも
僕は何も悪い事はしてなくても
親父は俺に謝れと言う事。

何か悪さをした時は
「やいと(お灸)を据える」と言い
掌にお灸を据えられた(泣・笑)

GOCHA
それは悪い事を和人がしたからやろ!!
でもまぁ、お灸はやり過ぎやけど。
昔の話やしね、許してあげやー

と嫌な事はまだあるけど、

でも嫌なことばかりではなく、
楽しいこと嬉しい事も沢山あった。

小学校の校庭で

ボストンで入賞

それは突然の事だった。

学校でのこと。
授業が始まろうとしている時に、
先生から教室の前に出てくるようにと言われた。

「え、何?」

訳が分からず前に行くと、額縁を渡された。

それは、何か月か前に自分が描いた、
京都太秦にある仁和寺の仁王様の絵だった。

なんでもボストンの姉妹都市公立学校と
京都の学生アートワーク交換ということで、
知らない間に自分の絵が選ばれ、
ボストンに展示されていたらしい。

それが入賞したというのです。

英語で書かれた表彰状が届いていて、
クラスのみんなの前で表彰されて、
恥ずかしさと嬉しさで
照れまくっていた記憶がかすかに残っている。

ザリガニの餌か?僕の餌か??

合言葉は「88ヵ所行こ!」。

88ヵ所とは正式名称では
「御室八十八か所めぐり」。

太秦にある霊場の事なんだけど、
至る所に池が作られていて、
そこでザリガニ釣りを楽しんでいた。

それと何といっても、
餌に使っていた駄菓子のスルメの旨い事!

それは「88ヵ所」の入り口付近の
小さな駄菓子屋に売っていた。

「スルメ」を餌にザリガニを釣るので、
もちろんそれを 自分が食べたら
餌がなくなってしまう。

しかし普段あまりお菓子なんか食べる事も無く、
家から駄菓子屋のおばちゃんの所まで
自転車で30分あまり
頑張って来たご褒美と考えてしまう
その当時の僕に到底我慢が出来る訳もない。

そしてついつい1口食べると、
口の中で酢の酸っぱさと甘みが
丁度良い感じで混ざり合った。

2口・・・
3口・・・

どんどん食べてしまい、
肝心のザリガニの餌が僕の餌になった。

また店まで戻り、
なけなしのお金でスルメを買う。

でも、その店のおばちゃんにしたら
スルメは「ザリガニの餌」なんかじゃなくて
俺みたいな子供を釣り上げる餌だったんだろなー。

GOCHA
いや、それはただのスルメのお菓子で
ザリガニ釣り用のお菓子ではないです。

その他の遊びと言えば、
ドッジボールが大好きだった。

あと、バットを使わない野球等に
休み時間や放課後の大半を使っていた。

今思えばこの頃が一番毎日が笑いに包まれていた。

家の外にいる時間だけはホントに楽しかった。

あの頃は「メンコ」・「ビー玉」・「缶けり」等・・

外で暗くてもう殆ど見えてへんやん!
ってなるぐらいまで外で遊んでいた。

このストレスと楽しさを抱えていたこの時が、
多分人生で2番目に楽しい時期だったんだろうと今は思う。

GOCHA
 一番はいつなん?
和人
これからに決まってるやん!

夢を持つ幸せ

そんな感じで幼少期が過ぎ
今の自分の人格がほぼ出来たように思う。

そしてそんな僕の夢は
絵の世界で多くの人に認めてもらう事。

そして嫁様と二人で二人展をして日本中を回りたい。

絵を描く事を通じて旅をしながら、
色々な人達と出会い、刺激しあい、
生きていけたらなと願っています。

やりたい事がありそれを追い続けるのは
大変な事もたくさんあるけど
その分幸せな人生を送れていると実感している。

「たとえ成功しなくても」

僕はたとえ夢を叶えることが出来なかったとしても、
仕事だけの人生よりかは遥かに刺激的な人生を
歩ませてもらっていると実感している。

今僕は絵を描き続けてきたからこそ、
普通の会社勤めでは出会えない人たちや、
普通では経験できない事も経験出来た。
今はまだちっぽけだけど有意義だ。

これは何も絵を描いて来たからと言うよりも、
何か物事にしっかり向き合い、
追求する気持ちを持ち続けて努力していれば、
なんだって同じだと思う。

とにかくやり続けることが大事で
そして広い範囲に発信する事。

そら頑張っているからこそ傷つく事もある。

ストレスだってすんごく溜まる事もあるけど、
それは間違いなく頑張って努力しているからこそで、
なんの苦も無く進んだ人よりかは
その後の喜びはハンパなくデカいはず!

その日が来るのが今から待ち遠しい!
人よりかは歩みは遅いけど。

いつか必ず願いは叶う!!!

本当にこんなに長いのに読んでくれて
めちゃ嬉しいです!

ありがとう!

出来ればこんな人間がどんな作品を描くんやろーって気持ちで作品を観てやって下さい。
中沢和人の作品集

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